2007年12月03日
祇王寺
平家物語悲恋の尼寺として知られる祇王寺
平家物語の悲恋とは・・・(祇王寺HPより)
平家物語の巻頭に、祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。・・・・・・・・・・・・と美しく書き出してあるが、更に読み進むと祗王祗女の事が出て来る。これは平氏全盛の頃、平清盛と二人の女性の哀れな物語である。
この頃、都に聞えた白拍子の上手に祗王、祗女と言う姉妹があった。近江の国野洲江辺庄の生れ。父九郎時定は、江辺庄の庄司であったが罪あって、北陸に流されたので、母と共に京都に出て、白拍子となり、のち姉の祗王が清盛の寵を得て、妹祗女も有名となり、毎月百石百貫の手当もあり、安隠に暮らしていた。或時清盛が祗王に、何か欲しいものがあるかと尋ねると、祗王は、自分の生国は水の便が悪く、毎年旱害を受け、一庄三村は飢餓に苦しんでいるから、願わくば、水利を得させて戴きたいと願った。清盛は早速、野洲川から三里の溝を掘らせ、水を通した。里人はこれを徳とし溝を名づけて、祗王井川と呼び、今に至っている。
所がここに加賀の国の者で、仏御前と呼ばれる白拍子の上手が現われて清盛の西八条の館に行き、舞をお目にかけたいと申し出た。清盛は、神とも言え、仏とも言え、祗王があらんずる所へは叶うまじきぞ、とうとうまかり出でよと門前払いをしたが、祗王が、やさしく取りなしたので、呼び入れて、今様を歌わせることにした。仏御前は、
君を初めて見る折は 千代も歴ぬべし姫小松
御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れいて遊ぶめれ
と繰り返し三べん歌ったが、声も節も頗る上手だったから、清盛は、たちまち心動かして仏御前に心を移した。昨日までの寵愛は何処へやら、祗王は館を追い出されることになった。せめてもの忘形見にと、
萌えいづるも 枯るるも同じ 野辺の草
いずれか秋にあわではつべき
と障子に書き残して去って行く。
あくる春になって清盛は仏が退屈しているから、舞を舞って仏をなぐさめよと使者をよこすと、祗王はもとより行く気は無かったが、清盛の権勢と母の哀願に抗しかね、館に行って、 仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり
いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
と歌い舞った。並居る諸臣も、涙を絞ったと言う。
祗王「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」とて、祗王二十一、祗女十九、母刀自四十五の三人、髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入る。母子三人念仏している所へ竹の編戸を、ほとほとたたく者がある。出て見ると、思いもかけぬ仏御前であった。
祗王の不幸を思うにつれ、いずれか秋にあわで果つべき、と書き残された歌を誦するにつれて、無常を感じ、今朝、館をまぎれ出でて、かくなりてこそ参りたれと被っていた衣を打ちのけるのを見れば、剃髪した尼の姿であった。わずかに十七にこそなる人の、浄土を願わんと深く思い入り給うこそ、と四人一緒に籠って朝夕の仏前に香華を供えて、みな往生の本懐を遂げた。
楓の素材は*季節の窓*さんからいただきました。
平家物語の悲恋とは・・・(祇王寺HPより)
平家物語の巻頭に、祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。・・・・・・・・・・・・と美しく書き出してあるが、更に読み進むと祗王祗女の事が出て来る。これは平氏全盛の頃、平清盛と二人の女性の哀れな物語である。
この頃、都に聞えた白拍子の上手に祗王、祗女と言う姉妹があった。近江の国野洲江辺庄の生れ。父九郎時定は、江辺庄の庄司であったが罪あって、北陸に流されたので、母と共に京都に出て、白拍子となり、のち姉の祗王が清盛の寵を得て、妹祗女も有名となり、毎月百石百貫の手当もあり、安隠に暮らしていた。或時清盛が祗王に、何か欲しいものがあるかと尋ねると、祗王は、自分の生国は水の便が悪く、毎年旱害を受け、一庄三村は飢餓に苦しんでいるから、願わくば、水利を得させて戴きたいと願った。清盛は早速、野洲川から三里の溝を掘らせ、水を通した。里人はこれを徳とし溝を名づけて、祗王井川と呼び、今に至っている。
所がここに加賀の国の者で、仏御前と呼ばれる白拍子の上手が現われて清盛の西八条の館に行き、舞をお目にかけたいと申し出た。清盛は、神とも言え、仏とも言え、祗王があらんずる所へは叶うまじきぞ、とうとうまかり出でよと門前払いをしたが、祗王が、やさしく取りなしたので、呼び入れて、今様を歌わせることにした。仏御前は、
君を初めて見る折は 千代も歴ぬべし姫小松
御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れいて遊ぶめれ
と繰り返し三べん歌ったが、声も節も頗る上手だったから、清盛は、たちまち心動かして仏御前に心を移した。昨日までの寵愛は何処へやら、祗王は館を追い出されることになった。せめてもの忘形見にと、
萌えいづるも 枯るるも同じ 野辺の草
いずれか秋にあわではつべき
と障子に書き残して去って行く。
あくる春になって清盛は仏が退屈しているから、舞を舞って仏をなぐさめよと使者をよこすと、祗王はもとより行く気は無かったが、清盛の権勢と母の哀願に抗しかね、館に行って、 仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり
いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
と歌い舞った。並居る諸臣も、涙を絞ったと言う。
祗王「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」とて、祗王二十一、祗女十九、母刀自四十五の三人、髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入る。母子三人念仏している所へ竹の編戸を、ほとほとたたく者がある。出て見ると、思いもかけぬ仏御前であった。
祗王の不幸を思うにつれ、いずれか秋にあわで果つべき、と書き残された歌を誦するにつれて、無常を感じ、今朝、館をまぎれ出でて、かくなりてこそ参りたれと被っていた衣を打ちのけるのを見れば、剃髪した尼の姿であった。わずかに十七にこそなる人の、浄土を願わんと深く思い入り給うこそ、と四人一緒に籠って朝夕の仏前に香華を供えて、みな往生の本懐を遂げた。
楓の素材は*季節の窓*さんからいただきました。